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今日は何の日

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2012年 08月 24日

「今日の焦点!」20120824

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 IISIA代表・原田武夫の言葉をお届けします!

             IISIA公式メールマガジン 2012年8月24日号
                発行: http://www.haradatakeo.com/
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 □■□ IISIA代表・原田武夫からの〈メッセージ〉 □■□
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●「今日の焦点!」
 ~これを読めばマーケットとそれを取り巻く国内外情勢のツボが分かる~
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⇒“今日の焦点”はズバリ:

 「ドイツで連邦軍の国内派遣に合憲判決」です。


⇒その理由は……:

 ─現在進行中の金融メルトダウンによって「何も起きない」と考えている
  向きが未だかなりいます。しかしこれから「何かが起きる」のが
真実です。

 ─だからこそ、米欧では着々と備えがなされています。
  ここで取り上げるドイツにおける連邦憲法裁判所の判決もその一つです。

 ─自衛隊の災害出動が当たり前になっている我が国においてはなかなか理解
  しづらいかもしれません。しかしドイツでは事情はやや異なります。

 ─憲法である「ボン基本法」の条文には、連邦軍の国内派遣について
一義的な定めはありません。そのため、1960年代から争いが生じて
きました。

 ─なぜ争いが生じるのかと言えば、当時、学生運動が激しくなり、連邦軍が
  投入されたからです。これが「違憲」、「いや合憲」と議論された
わけです。

 ─結果的にその時は「違憲」ということになり、最近でも6年前に同様の
  判決が出されました。しかしここに来ていきなり「合憲判決」が
  出ました。

─これをどう解釈すべきなのか。そのカギはドイツでは憲法裁判所が政治に
 踏み込んだ判決を下す、いわゆる司法積極主義が存在する点にあります。

─つまり、連邦憲法裁判所がこうした憲法判断を行った背景には、連邦軍の
 国内派遣の可能性があるからなのです。その理由は何でしょうか。

ここで思い出さなければならないのが、デフォルト(国家債務不履行)の議論
が徐々に欧州全体で「政治化」している点。議論はやがて過激化します。

既にフランクフルト等では銀行街での座り込みを通じた、大規模な示威活動が
始まっています。人々が「書を捨てよ、街へ出よう」と動き出しています。

「アラブの春」は、やはり世界中にこれから及んでいくというわけなのです。
欧州、そして米国と、この秋からその波が及んでいくことになります。

それでは我が国は一体どうなるのか。
やはり歴史的な「政治体制の転換」にまで至ってしまうのか。

総理官邸前でのデモが毎週行われていることの意義を噛みしめつつ、このこと
について想いを馳せること。ここに全精力を集中させるべき時なのです。


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●「今日の言葉」
 ~不安な時代だからこそ「覇術」ではなく「王道」を語る珠玉の言葉を~
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“もし無為を見て正位に入るものは、また阿耨多羅三藐三菩提心を発す
 あたわず、たとえば高原の陸地には蓮華を生ぜず、

卑湿の汚泥にはすなわちこの華を生ずるがごとし”
 

(山本空外『無二的人間』より抜粋)


……IISIA代表・原田武夫のコメント:

─日本語に「清濁併せ飲む」という表現がある。
 私が最も好きな言葉の一つである。

─100パーセント混じり気のない何かを求めていた時期が確かにあった。
 しかしいつしかそれが「世界そのもの」ではないことに気付いた。

─「真実」を求めているのであれば、「世界そのもの」ではないものに拘泥
 してはいけないのだ。したがってその世界を歩くのをやめた。

─大事なことは「世界そのもの」とは陰陽であり、出と入りということ

 なのだ。相対するものが二つ合わさったところに世界の実在がある。

─そのことを年輪と共に悟った時、人の生き方は変わる。
 「何でも見てやろう」という態度へと変わっていくのである。

─泥んこにならなければ泥とは何か、汚れるとは何かは分からない。
 しかし同時に清らかさとは何か、清流とは何かも分からないのである。

─そのことをかつてブッダは『維摩経』の中で説いたのである。
 そして戦後の高僧・山本空外もまたこのことを説いたのである。

若者よ、何も恐れることはない、進んで泥んこになれば良いのだ。
傷つくことを恐れるな、なぜならば皆が泥んこなのだから、本当は。

そしてその泥のしぶきの中に揉み合う相手の笑顔を見た時。
本当の清らかさは、心の中にあることに初めて気づくのである。

飾ることなかれ。
奢ることなかれ。

真実は、清濁併せ飲んだところにこそ見えて来る。

by kissyouten2006 | 2012-08-24 21:40 | 原田武夫公式メールマガ


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