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2010年 10月 15日

小和田家の野望4

小和田家の野望3 http://itabasi.exblog.jp/13459542

「国連事務総長に」の声に猛然とやる気を出した

 九月七日午後六時から、東京日比谷の帝国ホテル孔雀の間で、「小和田恒外
交論出版を祝う会」がひらかれ、約五百人の財界関係者が顔をそろえたことは、
彼の野心を雄弁にものがたっていた。政治家では、福田赳夫元首相、宮沢喜一
元首相、柿沢広治前外相、財界からは鈴木永二前日経連会長、速水優経済同友
会代表幹事らが出席した。福田赳夫氏が外相、首相時代に、小和田氏は秘書官
をつとめている。
 マスコミの取材をシャットアウトしたパーティで、挨拶に立った小和田氏は、

「いま国際社会で日本がおかれている状況は、単に人といっしょになって参画
するだけではなく、もっと創造していく必要があるということだ」
 と出版した本のタイトルどおり「参画から創造へ」を強調した。本の帯には
「小和田恒は早くも伝説の外交官になりつつあるかに見える」という文字が躍っ
ていた。
 おどろくべきことに、皇太子妃選び雅子妃にしぼって勧められはじめた一九
九一年九月、イギリス外務省から日本の外務省に「ミスターオワダを国連事務
総長にどうか」という打診があったとき、当時外務事務次官だった小和田恒氏
は猛然とやる気をみせたと外務省担当記者は言う。
「それで外務省内に国連事務総長になる場合に対応するための、四、五人のプ
ロジェクト・チームをつくった」
 けっきょく「小和田事務総長」はまぼろしに終わったが、国会では国連平和
協力法案が廃案を目前にしていた時期であった。日本の国際貢献の方針が、憲
法の精神をめぐって決まらずじまいであった。この微妙な時期に、小和田氏は
国連事務総長ポストにこころを動かされていたということになる。この時、自
分の長女が皇太子妃として有力になりつつあることを、小和田氏はご存じなかっ
たのだろうか。
 ほぼ一年後の一九九二年十月三日、千葉の鴨場で雅子妃は皇太子からプロポー
ズを受け、十二月十二日、東宮仮御所で結婚を了承する。
 天皇家に深くつながることは、あらゆる利害から独立してあるべきだという
ことと、国連事務総長もまた、あらゆる利害から独立してあるべきだというこ
とはどちらも自明の理である。小和田氏がどちらの立場も同時に手に入れよう
としていたら、この矛盾をどう説明するのだろうか。
 小和田氏の立身出世のおもいは、一九九三年八月一妃に外務事務次官を終え
てからもつのっていたようで、外務省関係者は「ご本人は、駐米大使になりた
かったようだ」と話す。
 栗山尚一駐米大使の任期もからみ、また天皇家と縁戚関係になったことから、
日米摩擦などで傷つけてはならないという配慮もあって、国連大使に落ち着い
たのだが、この席でも「国連には情報がない」とこぼしていたという。
 そして、ことし六月八日、ニューヨークの国連本部でひらかれた国連安全保
障理事会改革作業部会の席上、小和田国連大使は、
「日本は常任理事国として、世界の平和と安定のため、なしうるかぎりの責任
を果たしたい」
 と日本政府高官としては、はじめて「常任理事国」という直接的なことばを
使って、日本の常任理事国入りへの意欲を表明した。政界混乱のなかでの国連
本部での発言は、旧連立政権にかわって生まれた、常任理事国入りに慎重な自
社さきがけ連立政権さえも、やがて常任理事国入りに向かって動かすこととなっ
ていった。


天皇皇后をエスコートした「国連大使」夫妻

 明治維新後の東京遷都以降、天皇家は政治の波に翻弄されつづけた。それは
京都御所という民衆にひらかれた代々の居住から、江戸城という武家の城に移
されることによって、比喩的にいえば政治の側に"幽閉"されたとみることがで
きる。
 京都時代の天皇は、ときに六条河原にも足をはこび、人目にふれることはし
ばしばだったが、広大な江戸城に移ってからは、民衆の目にふれることは少な
くなった。こうして民衆から隔離することによって、明治政府は富国強兵政策
のもとに天皇を軍神としても奉り、戦争の時代へと国を導いてく。
 太平洋戦争が終わってみれば、日本の政治にアメリカ合衆国までが加わり、
戦中は現人神としてまつられた昭和天皇は、戦後は人間天皇となり、贖罪の意
識を崩御のきわまで懐きつづけた。全国巡幸の旅や全国植樹祭への参加は、人
々の気持ちを癒すというただひとつの目的のためであった。
 その孫として、昭和天皇から直接、薫陶を受けつづけた皇太子は、一九九〇
年二月二十三日の三十歳の誕生日の記者会見で、右翼による本島等長崎市長の
狙撃事件について質問され、きっぱりとした口調でこたえている。
「言論の自由は、つねに尊重されなければならないものであり、これを暴力に
よって封ずるという行為は、断固としてあってはならないことであると私は考
えます」
 本島市長は「昭和天皇に戦争責任はある」と公の場で語り、狙撃されたのだ。
皇太子はその狙撃事件を、「断固として」という強い表現を使って断罪したの
だった。おそらくそこには、たんにこの事件についてばかりではなく、歴史的
視点に立った広い意味での祈りがこめられていたようにおもう。
 そんな皇太子の姿勢は一九八七年九月の沖縄訪問のときにも如実にしめさ
れた。
 皇太子は、およそ二十万人もの犠牲者をだした沖縄戦で、最後の戦場となっ
た本島南部の「ひめゆりの塔」に足をはこんでいる。塔に祈りを捧げたあと、
人々から当時の女性とらの最期を聞いた皇太子は、ふたたび塔のまえに歩み寄
り、頭を下げたのである。
 新しい政治の波が「普通の国家」というかけ声のもとに押し寄せているいま、
皇太子は石のように動かずにいなければならないのかもしれない。常任理事国
入りについての国民的な議論をなんら喚起することもなく、「まず常任理事国
入りありき」で突き進む政治の力。果たして安保理の採決にたいして拒否権を
行使できるかどうかも、いまの日本のあやふやな姿勢では危ぶまれる。常任理
事国入りのための尖兵として、政治の側から皇室外交を押しつけられたのでは、
天皇家とはいったいなんだということになってしまう。
 けれども、じつはことし六月の天皇訪米で、すでにそれは果たされていた。
天皇皇后は、ニューヨークの国連本部を訪れ、ガリ事務総長夫妻が主催する午
餐会に招かれた。そのとき天皇皇后をエスコートしたのは、国連大使の小和田
夫妻だった。常任理事国入りをアピールするには、絶好のパフォーマンスであった。


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by kissyouten2006 | 2010-10-15 02:02 | 日 記


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